宴のあと                       扇湖山荘


 大正後期から昭和初期にかけて、鎌倉の郊外に、自然との共生をテーマに大規模な別荘地が開発された。鎌倉山と呼ばれる住宅地である。

 大邸宅が立ち並ぶ鎌倉山の中でも、桁違いの規模を誇るのが扇湖山荘だ。十三万坪もの土地に、飛騨高山にあった桃山期の豪農の家を移築して母屋とした邸宅で、昭和10年(1935)頃に竣工された。夫の長尾欽也と共に現在のわかもと製薬を創業した長尾よねが晩年をすごした場所である。

 母屋のテラスから、相模湾が扇形をした湖のように見えることにちなみ、扇湖山荘と命名された。上の二枚の写真を参照されたい。

 

 長尾よねは一代で巨万の富を築き、一代で使い果たしてしまった伝説の女傑である。凡人とはスケールが違う。美術品の収集に執念を燃やし、戦後はこの扇湖山荘の地下に、とてつもないお宝を収蔵していたらしい。

 軍人や政治家、鎌倉の山崎で芸術家村を営んでいた北大路魯山人などの芸術家、久米正雄や里見とんなどの鎌倉文士をはじめとする数多くの有名人著名人らと交流があった。

 

 近衛文麿の別邸があった場所もこの近くだ。鎌倉山の開発は大正後期から昭和初期にかけてなので、初期の住人の近衛は長尾家よりも前に鎌倉山にいたことになる。

 長尾家は近衛とも親交があった。

 近衛文麿は昭和20年(1945)12月に戦犯容疑として出頭命令を受け、指定された日の前日に荻窪の自邸で服毒自殺を遂げてしまう。その前日までの四日間、近衛は滞在先の軽井沢からまっすぐ自邸には戻らず、世田谷の深沢にあった長尾邸に逗留していたそうだ。現在は都立の深沢高校になっている場所である。しかも近衛が服毒自殺に使った青酸カリは、長尾よねからもらったものだという話を聞いたことがある。

 歴史を噛み締めながら扇湖山荘内の庭園を歩くと、感慨もひとしおだ。

 

 ――ところでこの扇湖山荘、直前の所有者だった三菱東京UFJ銀行から寄贈され、現在は鎌倉市の所有になっている。困ったのは庭の手入れだ。

 名作庭家の誉れ高い小川治兵衛、通称植冶の手になる名園である。年間億単位の維持費がかかってしまう。

 さて困った……。

 そこに救いの手が伸びる。

 庭木や生垣の整姿、植栽の選定などを鎌倉造園会が自己負担で買って出てくれたのだ。

 植治という名作庭家の精神と技術を後進に伝えたいという意図があるにせよ、その心意気に拍手喝采したい。